からいもー安 穏あんのん
正浄寺しょうじょうじ
正浄寺は、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ浄土真宗本願寺派(西)の小さなお寺です。人口200人にも満たない高齢化が進む典型的な小さな過疎の島で、お寺を支えてくださるご門徒の数は100戸にも満たないですが、お寺を大切にしてくださる土地柄であります。明治39年に設立されてからまだ100年余にすぎませんが、旧薩摩藩時代には300年にわたって浄土真宗を信仰することは禁止されていました。しかし、島の信者たちは密かに講を組織して、隠れて信仰し、子々孫々へと護り伝えてきました。
明治9年、信仰の自由が発布されると、甑島でも一挙に念仏の道場である本堂建設の気運が高まり、地域(字)ごとに本堂が建立され、15,6ヶ寺の真宗寺院が設立し、ほとんどの島民が浄土真宗の門徒としてお寺を護ってきました。しかし、経済成長期になると、都会への島民の流出が著しくなり、急激な人口減少が始まりました。
里村、上甑村、鹿島村、下甑村の四村であった甑島も平成16年10月に、川内市と統合合併して薩摩川内市となり、住所も郡から市へ、村から町となりましたが、人口減少にますます拍車をかけたかのように、かつて3万人以上いた人口も今では四千人を切りました。そういう過疎化の中にあって、下甑島との甑大橋の開通は島内は勿論、島外の人たちにも大きな関心となったようです。
とにかく、島内での往来が自由になったということです。また、コロナ禍での開通でしたが、それでも観光客は足を延ばしてくれたようで、特に県外ナンバーの車や大きなオートバイでツーリングをするグループが目につくようになりました。
長いトンネルを抜けて、夕凪の海の上を風を切って走る姿を想像するだけで、爽やかな気持ちになります。
ところで、ページのタイトルを「からいもー安穏」としました。「からいも」は「正浄寺便り」のタイトルですが、「世の中、安穏なれ、仏法ひろまれぞかし」という宗祖親鸞聖人の願い(言葉)を付け加えました。
コロナはインフルエンザ並みの扱いになり終息宣言されましたが、ウクライナとロシアの戦争は未だに終息を見いだせず、新たに紛争が起こり多くの犠牲者が出ていることに心が痛みます。
串木野新港~里港 フェリー 80分
里港~平良 車 約20分
バスは南国交通上甑事業所09969-2-0400へ問い合わせて下さい。
再建前の本堂
正浄寺の歩み
1881(明治16)年 平良説教所開設
1901(明治34)年 本堂建立
1906(明治39)年 正浄寺々号公称
1953(昭和28)年 本堂大修理・庫裏新築
1980(昭和55)年 本堂再建(現在の本堂)
1982(昭和57)年 本堂落成・住職継承慶讃法要
2004(平成16)年 本願寺第24世即如門主ご巡教
2007(平成19)年 寺号公称100周年記念
本堂再建25周年記念慶讃法要
親鸞聖人幼少の像除幕
2009(平成21)年 納骨堂(久遠堂)建立
久遠堂
正浄寺 〒896-1281鹿児島県薩摩川内市上甑町平良321
電話/fax 09969-2-0252
メール karaimo321@yahoo.co.jp
本堂内(内陣/外陣)
法昭寺ほうしょうじ
浄土真宗本願寺派 法昭寺 上甑町江石211番地
住職代務 大嶋 三郎 (平良 正浄寺住職)
連絡先 平良321正浄寺 ☎ 09969-2-0252
里港から車で約20分。バスは中甑で乗換ですが、南国交通 上甑事業所(09969-2-0400)へ問い合わせて下さい。
法昭寺は、昭和5年、浄土真宗本願寺派の寺院として認可されましたが、本堂は明治40年頃、旧小学校跡地に建築されました。当時、寺院設立に向けて努力されましたが、寺号公称とまではいかず、中甑・正蓮寺の出張所として布教伝道がなされてきました。その後、興正寺派のご門徒を本願寺派に統合して、江石出張所として寺院活動が行えるようになり、昭和5年、旧川内市永利の永楽寺住職を代務住職として手続きが勧められ「法昭寺」と寺号を公称しました。昭和8年、天野克己氏を初代住職に迎えましたが、昭和30年、49歳を一期にご往生されました。 その後、尼子領甫氏、下薗教信氏が着任され、下薗氏往生後、20年余り現在の住職代務者である大嶋三郎が兼任しています。